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国際航空連盟



























































































































































































































































   
   日本模型界の長年の夢であった国際競技への参加第1号はいつ、誰であったか?それはどんな種目
   だったのか?戦後まだ庶民にとって海外渡航が一般的でなかった頃、全世界大会(その当時はこのよ
   うに呼んでいた。今の世界選手権)にたった一人で参加した選手がいます。初めて参加する世界選
   手権はどんな様子だったのかをここに紹介してみましょう。


        この記事は当時の航空関係誌にも掲載され、数年前のインドアの機関誌「FF WINGS」
       でも紹介されました。最近では中部フリーフライトクラブの「CFFC会報」で紹介され
       ましたので、ご本人にも了解を得てここに紹介します。       全4話  
            
                            


1954年度全世界模型飛行機競技大会参加記     - その1 -

 


    愛機と共にニューヨークにて
                                    三善清達

        
 東京から唯一人。2台のウエークフィールド級「ボヘミアン号」と「カグヤ号」とそれに一束の工
具をかついで、数十時間。ユナイテッドエアラインのDC−7型は、今1954年7月23日の夜明
け、ぐらっと左に大きくバンクして、ニューヨーク・インターナショナル・エアポートに向かって着
陸の姿勢をとった。

 とうとう来た。唯一人で、ニューヨーク迄。日本模型会の長年の夢であった国際競技への参加第1
号として、今年度のウエークフィールド・トロフィーレースに参加する可く、遂に僕は2台のウエー
クと共にニューヨークの地を踏むのだ。

 夜明けの海、夜明けの街々をかすめて、機は軽やかにバウンドした。エンジンが緩回転してブレー
キをかけて居る。やがてスルスルとポートの前にとまって、ドアがあいて、さあニューヨークの空気
だ。明るい光が、ねぼけまなこにカチカチ痛い。

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 未だまどろみの夢さめやらぬハイウェイを、市内迄車で約1時間。沿道の大きなガラス窓も、聳え
立つビル街も、今は皆後廻し、心細い僕をかこんで、NHKの古垣さん、それに御世話になる日本模
航空界おなじみの、ペイ・ロードの創始者シャーマンさんからのお迎えの方が、何かと話しかけら
れるが、こっちはうわの空だ。

 豪華なシャーマンさんのアパートに、やっとたどりつくと、休む間も無く、アメリカ模型飛行機協
会理事長ニコラス氏が迎えに来て、市長を一緒に訪問するのだと言う。正午頃、新聞社のフラッシュ
にかこまれ乍ら、市長その他大勢の人と握手していると、やがて雑誌モデル・エアロプレーンの編集
者の人が来て、一緒に食事をしようと言う。

 2時頃。一旦シャーマンさんの所迄送ってもらい、物も言わずにベッドにもぐり込んだ。黄色い輪
の中を果てしなくぐるぐる廻っている夢を見ていると、たたき起こされて、今度はテレビ出演だと言
う。石臼の様にゴトゴトと脳ミソが廻っている頭を叩き乍ら、今度は例の世界最高と言うエンパイア
・ステートビルにつれて行かれた。

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 気圧の変化で耳がガーンとなるエレバーターを降りて、テレビ・カメラのライトを浴びる。雲が映
ってジェット機が飛んでいる。やがて世界地図が出て、日本の位置が示される。アジア大陸にへばり
ついたサソリのような日本、其処からアメリカ迄線を引いて「ロング・ロング・ウエイ」とやって、
そこへ僕が登場する。手に抱えた2台の愛機がライトを受けてギラギラ光っている。

 「貴君は日本でどの位長くやって居るか」 「まあ10年位」 「おう、それでは自信はあるか」
「上手く飛んでくれるといい、と思って居る」そして「しかし乍ら日本はしめっぽいが、アメリカは
乾燥しているので、翼がヒネれるのが心配だ」と言うつもりだったが、ヒネれるなんてとっさに出な
いので、手でねじくり変える形をやった。テレビだからこれで通じる。

 スタジオを出て、又車に乗せられ、今度こそ眠れるぞと思っていると、どうも変な方向に行く。聞
きただすと「君を軍用機に乗せて競技場迄行くのだ」と言う。「競技場はニューヨークではないのか」
と聞くと、「ニューヨーク州だがロングアイランドで、飛行機で40分位かかる」と言う。これを聞
いた時は全くガッカリして、頭がくらくらとなって仕舞った。然しもうどうにもならない。やがて半
べそで双発の輸送機らしいのに乗り込む。そしてパラシュートのバンドをつけてもらって、あたりを
見廻すと、乗り込んだのは僕ばかりでなく、外国から来た選手も相当多いことが分かってヤレヤレと
思う。

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 僕の隣は、スイスから来たスイルヴィオ・ランフランキーと言うFAIガスフリー名うての強者のじ
いさんだった。胸につけた十字のスイスの旗。彼は窓から見える夕日にもうシワの多い半顔を輝かせ乍
ら、しきりに何か話しかけた。

 40分の後、飛行機は競技場サーフォーク飛行場に舞い降りた。続いてもう1機、これはウエーク

の選手らしいのを大分吐き出す。飛行機から降ろされる箱又箱、ベニヤの、ダンボールの、緑の、黄
の、紺の、・・・。

 空気はしっとりとつめたく、遠い彼方の滑走場からはジェット機が昇って行く。遂に此処だ、東京
からサーフォークまで・・・。

 僕は不図、終戦後大阪伊丹で行われた全日本大会に、スカイフレンズの仲間と遠征したことを思い
出した。東京−伊丹−サーフォーク。僕にとって、それは遠いけれど一筋の道だった。だがあの時は
30人の仲間今はたった一人で、襟元を通る夕暮れの風も冷たい。

 箱はトラックにのせられ、人間はバスで空軍基地の食堂に行って食事をする。ガテマラから来たと
いうアンデルセンの童話にも出て来そうなおじいさんの隣に座って食事をする。此の人はボブコフス
キーと言ってウエークの選手だ。「ゴムは何をもってきたか」 「T56とダンロップをもってきた。
しかしどちらもそう新しくない様だ」 「おう、もし切れたら、自分のところへこい。そうすれば貸
してあげよう」といってくれる。そして「ピレリ(イタリア製ゴム)がベストだ」と大きくうなずい
て叫んだ。

 そのうちに「君の持ってきた二台のうちどちらを飛ばすのか」ときき出した。「まあテストして見
なくては分からないが、大体は長い方(ボヘミアン)、風が強い様だったら短い方(カグヤ)を飛ば
すつもりだ」と答えると、じいさんは「私が貴方に指示を与えよう、風が強ければ短いのにしなさい」
と言う。僕も「そうしようと思っている」と答えると、横の方から「それは可笑しい、一体私の意見に
よれば・・・」と切り込んできた者が居る。白哲面長の額に、金髪をかき上げ、長い指をあごのあたりで
組み乍ら、もう一度「私の意見を述べるならば・・・」とやり出した。北欧人特有の、やや沈鬱な風貌と
哲学者の様な静かな此の語り手は、一昨年のウエークの勝者、アルネ・ピロムグリンその人だった。
で僕は「いや、長い胴体と僕が言ったのは、長いゴムのフック間隔のことで、同じゴムなら長いフッ
ク間隔の方が力が弱いから、風には損だという意味だ」と言うことを、言ったつもりだが、或いは通
じなかったかも知れない。

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 兎に角、ボブコフスキーじいさんとブロムグリンとは僕をはさんで、暫く英語でやり合って居たが、
そのうちブロムグリンが「おう、貴方はロシア語が分かるのだ」と言うとロシア語で猛烈にくってか
かった。僕は、全然分からないからじっと黙って居た。しばらくしてじいさんの方がやられたらしく、
黙って仕舞った。プロムグリンは僕に向かって「自分は夕方6時以降でなければ、決して飛ばさない
から、君が明日昼間飛ばすというなら、テストに立ち会って指示してやろう」と言った。日本でなら
「こん畜生!」と言う訳で、アルネの生命はないわけだが、此処は外国だし、世界の第一人者として
も、人も目し、優勝候補の一人として、自他共に許して居るアルネの言葉なら、まあよくきいておこ
うと思って「よろしく頼む」と言っておいた。じいさんも目くばせして「キャツの言う通りにさせろ、
それが一番だ」とささやいて居た。然し結局これは実現しなかった。何故なら、僕も昼間は飛ばさな
かったからだ。

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 宿屋は、緑の芝生と、白い花にかこまれた「ヘンリー・パーキング・ホテル」と言うので、一つの

国をブロックに部屋をとってあり、勿論バスつきで、数が多いから中々の費用だろうと思う。

僕は、日本から僕ともう一人、ブラジルに居る高橋君と申し込んであったので、二つの大きな部屋を
とってあったが、彼はとうとう来ず、僕は横の空しいベッドを眺めて、「一体どうしたら一人で上手
くやれるだろうか」と心細い想いに満たされ乍ら夢路に入った。

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 翌日朝、5時半にホテルを出発。飛行場に着き、格納庫の中で、いよいよ機体をほどきにかかる。
ボヘミアンとカグヤを組み立てて居ると、映画や写真に何枚も何枚もとられ、これは皆テレビに出
るのだという。さて周りを見るといるわいるわ、アメリカの、カナダの、イギリスの、オーストラ
リアの、ウエーク、ガスフリーが、続々と箱の中から生まれ出て居る。箱のつめ具合は、実にぜい
たくで、2台の機体を胴体も主翼も一つずつ箱に固定してあり、重ねてあるのは殆どない。

 そして国によって、こうも違うかと思われる程、ニュアンスが違って、イギリスはイギリスなり、
スウェーデンはスウェーデンなりの機体で、唯どれも凄く飛ばし抜いた機体である事は一目で分かる
ものであった。胴体は絹張りが殆どで、翼に使ったイギリスの機体が印象的だ。機体については、何
れ詳しく述べたい。

 審査は、ウエークとガスフリーと二箇所に分かれ、厳重だが中々スムーズで且つ非常にていねいだ

った。1グラムの10分の1迄出る真白な秤で重量をはかり、主翼、尾翼の面積やその他要目をしら
べ、それを女のタイピストが居て直ぐにタイプにうって行く。合格すると、胴体。主翼、尾翼の三つ
に、図の様なハンを押す。此のハンは周囲が四角いのと丸いのとあって、2台夫々に押す訳である。
尚胴体には「此の機体を拾った人は必ず本部へ届けてください」と言う意味の事を書いた大きな切手

の様な紙をくれ、それをはりつけ、その上にハンを押してくれる。


 テキスト ボックス: WAKEFIELD
1954
WORLD  MODEL
AIR OLYMPICS

 格納庫の外は太陽が近く、クリアーな空気は、その光を強烈に地面に叩きつけている。明日の大会
をひかえて会場の準備にトラックが出たり入ったりして居り、その中の一台がトラック一杯の箱をの

せて到着したが、これは真黄色な四発の飛行艇のモデルだった。


 選手達はゴムの目方をしらべたり、慣熟まき(ゴムをならす為に巻くこと)に忙しい。ゴムはダン
ロップとピレリだけ、T56をもってきたのは僕一人だけだった。

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 夕方、6時頃、食事をしてから車にのせてもらって、付近の私設飛行場に練習に行く。僕はアメリ
カの選手に手伝ってもらってまずカグヤを飛ばして見た。グライドが一寸気になっていたが、心配し
た翼のヒネレもなく、400回まいて2分だった。ひろって帰ってくると皆ほめてくれ「ナイスプレ
ーン」と口々に言う。先ずホッと一安心つき、続いてボヘミアンを飛ばした。グライドは実にいい。
500まいて2分12、3秒だったろうか。ひろって帰る途中、アメリカ選手が「君のプレーンはと
てもいい、君はきっと大選手だろう。日本では盛んなのか、どの位やっているのか」等ときくので、
「ウエークの選手だけで30人位、大部分は東京と九州にいる」と答え、「日本にアメリカの選手達

がきてくれたら皆とても喜ぶだろう」と言うと「是非行きたい」といって居た。然し彼はフジヤマは

知らなかった。

 スウェーデンのブロムグリンのはオレンジ色の歯車機で、実に見事な工作だった。空転で金属のス
ピンナー・キャップに、ドリルを引っかけて、ゴムを捲く様になっている。手でまいて飛ばして居た
が、室内機の様な具合だった。

  驚いたのはアメリカの機体だろうと思うが、ステッキのような長い桃色の胴体の機体で、夜光塗
料がぬってあるのか、夕闇にギラギラ光り乍らとんでいる事だった。これは上昇はゆっくりしていた
が、いい飛び方をしていた。兎に角高度をとることは物凄く 「これは一寸かなわないな」と思った。

 帰りの車の中で、プロムグリンにきくとプロペラダイアは51センチ(これは正確な値ではない)、
回数は毎秒12回(正確)にしているとの事だった。そして「スウェーデンは国中どこでも飛ばす事が
出来る」といって居た。 
                                            

                                                 − 第一話終り−


                      

ウエークフィールドトロフィー

1928年に、イギリスのサー・チャールズ・ウエークフィールド(後のウエークフィールド子爵)が寄贈した銀杯(ウエークフィールド杯)を基に始められた。
2009年の世界選手権で西澤実選手は世界チャンピオンとなり、このトロフィーを手にしました。模型
飛行機の中でも最も古い歴史があるのがこの種目です。

   
               
        
第2話 第3話 第4話

    

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