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1954年度全世界模型飛行機競技大会参加記 |
- その3 - |
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愛機と共にニューヨークにて |
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三善清達 |
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1954年7月26日、全世界模型飛行機オリンピックと銘打ったニューヨーク郊外、サーフォ |
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ーク飛行場では、第3日目の朝も昨日に引きつづいて輝かに迎えた。 |
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世界のチャンピオン達を抱いたパーキングホテルをかこむ白い花々の上、パークする車の上に、 |
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朝の口づけを送った太陽は、漸て異境の地にまどろむ僕の顔をなでまわした。 |
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午前6時、愈々今日だ。10年間の僕の夢、日本模型界の夢の果たされる時は遂に今日なのだ。 |
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窓から見える未だ露に濡れた屋根々々、テレビのアンテナ、緑の美しい並木道に沿って立ち並ぶ白 |
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い家、そしてテラスが一瞬に僕の目に躍り込んで、「ああ、此処はアメリカの郊外なんだなあ」と、 |
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日本への距離とたった一人の心細さが見にまとう。 |
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話声がワヤワヤときこえて、そっとドアをあけると、真黄色なシャツのカナダの選手らしいのが出 |
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て行く所だ。大がらな選手の胸に、赤いウエークが抱かれて、右の手にガン丈そうなドリルが鈍い光 |
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を放っている。 |
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6時半頃、僕はバスで飛行場へ。空気はつめたく、風はややきつく、サーフォーク飛行場は、今日 |
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も蒼空を頭にいただいて、クロスする滑走路にそって、パークする車の数はもう百台をこえ、遠目に |
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もはっきり分かる。色とりどりのウエークが、その陰にチラホラ見える。出発点には、もう例のトレ |
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ーラーの事務所がガンバッテ役員が4、5人、地図をひろげ、吹き流しを見やっては、果たして此処 |
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が最良の場所か見定めている。 |
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僕はその近くに箱をおろして、2台の愛機「ボヘミアン」と「カグヤ」とを組み立てて大きく息を |
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のんだ。愈々だ、今日こそ始めての日本代表機は、世界のチャンピオン達の間に交って、その翼を異 |
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境の地に羽ばたかせるのだ。 |
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アメリカの空をきる二つの翼よ、バルサのクヅとラッカーの匂いの立ちこめる僕の部屋で、誕生し |
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た「ボヘミアンよ、太平洋そしてアメリカ大陸をこえた1000哩の旅の後、今日こそお前達の晴れ |
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の舞台なのだ。どうか上手く飛んでくれよ」と云い乍ら、布で緑と紺の胴体をみがいてやった。僕の |
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箱の右手にはガテマラのボブコフスキーぢいさんが2人の助手をつれてがんばり、やや左手には一昨 |
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年の覇者スウェーデンのブロムグリンが、ビーチパラソルをひろげ、椅子をおき、定板を組み立て長 |
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い指で静かに機体の調子を見ている。 |
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こんな万全の構えは、ブロムグリンばかりでなく、殆どの選手が何台かの自動車を単位としており |
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、後の荷物入れを、格納庫兼工作室にしていて、応援の連中は、アイスクリームやジュースを車につ |
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みこんで、それをとりまいている。 |
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これは国際競技、殊にアメリカが開催地である以上当然の事。当然の条件で、その用意のなかった |
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僕は、大きな損失だった。 |
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大会が終わってニューヨークにも少しは慣れてから、こちらに来ている日本人に此の話をすると、 |
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皆口惜しがってくれ、前もって連絡さえあれば、皆でスシでも作って自動車も用意して応援に行った |
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のに、と云ってくれたが、何しろ今回は、やっとの想いで大会開始の前日に到着したんだから、まあ |
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どうにも仕様がない。しかし今度は、こういうことについては、余程考えて、選手の実力が出せる様 |
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に、はからないといけないと思う。 |
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さて1954年度ウエーク、トロフィレースは、白夜の国北欧の地に長らく滞在していたトロフィ |
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を、やっとの想いでとりかえしてきたアメリカの嬉しい微笑みの中に開かれるわけだが、今年は更に |
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80gと制限をくったゴムの使い様と、3分5回というややカコクなシステムが、どう競技の上にあ |
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らわれるか、大きな期待がかけられたわけであった。 |
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蒼い空に、イギリスの機体であろうか、わりに強い角度でのぼっていくのが見られる。水平尾翼の |
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前につけた垂直尾翼が印象的だ。 |
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ざっと見渡した所、一世を風びした歯車機は、今年は80gの影響を受けてか、さすがにブロムグ |
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リン1台のようである。胴体の非常に長い所謂「長もの」も、ぐっと数が少なく、大体1m前後の普 |
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通のものが多い様で、1m20もある僕の「ボヘミアン」等は、長い方である。胴体断面は矢張り四 |
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角と其の系統が多く、菱形あるいはダイヤにパイロンをつけたものもなかなか多い。被覆は絹張りが |
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8割以上、翼はダブル上反角、シグルまちまちで、脚は1本脚の引き込みもなかなか多い。プロペラ |
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の設計は、よく分からないが、比較的早い回転のものが多いように思われ、折畳みと空転の比率は、 |
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まあ半々といった所であろうか。ゴムは、ピレリ、ダンロップの順で、名高いT−56は、僕のボヘ |
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ミアン唯一のようでこれは思いがけない事であった。 |
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競技方法は、与えられた5回のチャンスを、第1回目は何時から何時迄。第2回目は何時から何時 |
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迄と発表して、その間にスタートさせればよいわけで、日本にいた時やっていたように、くぢびきで |
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順序をきめ呼ばれてから3分以内のスタートという方法は採用されない。これは、恐らく此の後で |
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述べるように、ゴムの80g制限の新しい方式がなせる業であろう。 |
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此の与えられた時間の中に、如何に自国の4人の選手を上手くバランスをとって出場させるかは、 |
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カントクの腕一つだが、僕のような唯1人のワンマンチームの心細さから比べたら、まあ嬉しい方 |
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の心配であろう。全く一昨日ついたばかりの異境の地で唯1人やりぬこうという気持ちは、悲壮以 |
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上のものだった。 |
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飛ばす順序は、先ず本部に行ってゴムの目方をはかる。もちろんリューブリカントをつけた重量 |
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で、これが規定通り80g以下であることを確認すると、ついで機体をはかりの上にのせ、両者の |
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合計が 230g以上であればオーケーとなって、前にかいたように、例の3枚つづりの紙にサイ |
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ンしてくれ計時員が2人、そのゴム及び機体に付属して、果たしてそのゴムを積んだその機体によ |
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り、離陸、飛行、着陸をしたか見とどけるわけである。 |
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出発は勿論、離陸出発で、機体のどの部分をつかんでスタートさせてもよいが、手を離すと同時 |
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に、むしろ後へ引く位でないといけない。 |
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さて午前8時頃、アナウンスは第1回の競技の開始を宣言した。ガテマラからきたボブコフスキー |
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ぢいさんのラバージェットと称する真赤な機体が、蒼空を背にけんめいにプロペラをぶんまわして上 |
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昇して行く姿がチラッと見える。 |
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出発点近くでは、ヒゲの濃いアルゼンチンの選手が、物凄い顔をしてゴムをまいている。これはゴ |
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ムを外でまいてから、フックの間隔と同じ長さの針金をつかって、胴体の中に入れる方法で、4〜5 |
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人仲間がかかって大騒ぎだ。 |
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捲き終えたヒゲの選手は、ダミ声で「ファイヤ、ファイヤ」と叫んだが、これは勿論デサマライザ |
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ーに早く火をつけるというわけで、仲間の一人が早速煙草の火をさし出して、尾翼の下にはさんだ火 |
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縄にとりつけている。 |
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カナダの機体であろうか。小さく旋回し乍ら、ぐんぐん昇って行く。一寸想像出来ないような高さ |
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で「スゲエヤ」と思って仕舞う。 |
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僕は2台の「ボヘミアン」と「カグヤ」のどちらにしようかと迷っていたが、風がやや強いので、 |
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馬力の強い「カグヤ」を第1回目に飛ばす事にして、ゴムをもう一度点検した。 |
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昨日テストの時、日本からきたゴム(ダンロップ)4本の中、2本つづけて切ってしまった僕は、 |
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もう残りのゴムを使えない気がしたので、高木さんという二世の人から、真新しいピレリをもらっ |
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て、断面も等数も全く同じにしてそれを入れた。だが、それが間違いであったとは神ならぬ身の誰 |
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が知ろう。560回捲いてスタートした「カグヤ」は、凄い勢いで10m程上昇して行ったが、突 |
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然プロペラが変な音を立てるとガウンと機首を下げて突っ込んで仕舞った。 |
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茫然として僕は、それでもころがるようにして機体にとりついた。やや特殊の設計のしてあった |
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折り畳みプロペラは、あまりに瞬間的馬力の強いピレリの力の為に、前へはずれてしまっていた。 |
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目の中にジーンと暗い、夢の中で見る様な茫漠とした虹がかかった。「オチツケヨオチツケヨ」 |
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うわ言のようにくりかえし乍ら、しょうぜんとして唯一人淋しく根拠地に引き上げた。 |
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日本ならば、日本の仲の好い飛行機の友達が、一人でもいてくれたら、機体をひったくって肩をドヤ |
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してくれただろう。 |
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そしてガクンとなった僕を、心から励ましてくれるだろう。然し此処ではたった一人なのだ。競技 |
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の前後は皆親切にしてくれる。だが競技の最中ともなれば、誰もが自国の選手の応援に夢中で、とて |
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もよその国の選手の事なんかに気が廻らないのは、又人情としても無理もない事であろう。 |
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茫然として折れたプロペラを手にし乍ら遠く見守る僕の目の中に、飛び廻るウエークの姿、はため |
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く吹流しがぼんやりと見えて、其の上に恰も映画の或種のシーンの様に、日本の友達や家族の顔が重 |
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なって肩の力迄ぐたっと抜けて仕舞った程だ。 |
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胸にうつ心臓の音は、淋しげなリズムに時をきざみ、その音に交わって各国選手のエキサイトした |
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息吹が、カチカチと伝わってくる。空は青く、居並ぶ車にダンスする太陽の光りがまばゆい。 |
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次から次へと手を離れ、滑走路をけって風に乗るウエークの美しさ。 |
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赤の、青の、黄の、黒の、グライドに移る姿、ペラを折畳みテルミックを探す小さな機影。ああ |
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ウエークの魅力につかれその道を歩んで10年。今日こそ、そのもっとも輝かしかる可き日である |
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のに。 |
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然しあと4回。くさらずにがんばろうと思い直して、故障の箇所、ワイヤーをきっちりと直して、 |
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第2回目をスタートした。しかし「カグヤ」は悪魔に魅入られた様に、再びプロペラを折って、地面 |
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に突っ込んで仕舞った。僕は茫然として口もきけなかった。今これを書いていてさえ心臓が止まるの |
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ではないかと思うあの時。 |
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日本の習志野で、スカイフレンズの岩田君や、病気中の三上君をわづらわして、調整を手伝っても |
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らった時、あんなによく飛んでいた「カグヤ」。昨日の夕方の練習の時だって、400捲いただけで |
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2分はとんでいたじゃないか。(注:これを書いて居る時、エアロ・モデラ−という雑誌が到着し、 |
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その中の記事でも、僕の機体が練習の時非常に好いとび方をしていたのに云々とあった)プロペラの |
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故障だって、手で押しても、ねじっても、大丈夫だったのに、一体どうしたというのだろう。 |
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何故こんな事が、こんな大事な時に、2度も起こったのだろう。ピレリはそんなにも、手よりも力 |
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が強いのだろうか。分からない、分からない、どうしよう、どうしたらよいのだろう。 |
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無理に勝とうと言うのではない。唯、普通にとんでくれさえすればよいのだ。日本にいた時と同じ様 |
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に、あの日本の空を、夕焼けの雲をついて、何度となく昇っていったあの時の様に・・・ |
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不思議に僕は、来る前から心配していた日本とアメリカの湿度の差、それによって引きおこされる |
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翼の狂いの事を思って愕然とした。でも昨日迄は確かに飛んでいたヤツなのだった。 |
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地に伏した「カグヤ」も、悲しそうだった。アメリカの土が、草のキレハシが、プロペラの軸にま |
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つわりついていた。僕は箱の所に引き返すと「ボヘミアン」の横に傷ついた「カグヤ」を並べて自分 |
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もぐったりと横になった。 |
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緑色の「ボヘミアン」と紺にぬった「カグヤ」。尾翼につけられた小さな祖国、日の丸の旗。鼻を |
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さす草のいきれ。カッと目にしみいる南半球の太陽。そして目をそらせば遠くまるで夢の彼方の出来 |
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事かのように何百台もの自動車の列が見えて、ゴムを束ねたり、ショートパンツのヤンキーガールが |
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、健康そうな笑声を風にのせたりしているのが見える。 |
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不意に頭の上で話声がして、代理飛行で参加しているアメリカの選手が2人、「僕の機体の失敗し |
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たのをとても残念に思っているが、がんばってこれをとばせ」とボヘミアンを指さしている。 |
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「ウン」とうなづいて、立ち上がると黒人の兵隊がきて、「日本スキデス」といってやってきて、分 |
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厚い手をさし出したりした。GIと結婚した日本の女の人がきて「ユー・ニッポン。ガンバッテネ」 |
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とやってくれる。 |
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「ウン、ガンバルヨ」と答えたが、何となく吾乍らうつろな声だった。「日本だったらなあ」と、 |
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心から思って悲しくなってしまう。 (次号完結) |
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− 第三話終り−

ウエークフィールドトロフィー |
1928年に、イギリスのサー・チャールズ・ウエークフィールド(後のウエークフィールド子爵)が寄贈した銀杯(ウエークフィールド杯)を基に始められた。
2009年の世界選手権で西澤実選手は世界チャンピオンとなり、このトロフィーを手にしました。模型
飛行機の中でも最も古い歴史があるのがこの種目です。
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