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国際航空連盟



























































































































































































































































   
   日本模型界の長年の夢であった国際競技への参加第1号はいつ、誰であったか?それはどんな種目
   だったのか?戦後まだ庶民にとって海外渡航が一般的でなかった頃、全世界大会(その当時はこのよ
   うに呼んでいた。今の世界選手権)にたった一人で参加した選手がいます。初めて参加する世界選
   手権はどんな様子だったのかをここに紹介してみましょう。


       この記事は当時の航空関係誌にも掲載され、数年前のインドアの機関誌「FF WINGS」
     でも紹介されました。最近では中部フリーフライトクラブの「CFFC会報」で紹介され
     ましたので、ご本人にも了解を得てここに紹介します。      全4話 


                                




1954年度全世界模型飛行機競技大会参加記      - その4 -

 


    愛機と共にニューヨークにて
                                三善清達

        
 アメリカの選手が、肩を叩いて昼御飯を食べに行こうというので、彼のオレンジ色のスチュード
ベーカーに乗っけてもらって、宿舎に行った。御飯を食べ乍らも、僕はどうすればどうすればと夢
中だった。食べる間ももどかしく、根拠地に戻った僕は、テストの為に、200回まいてボヘミア
ンをとばした。

 丁度、風も収まり、静かな気流に強いボヘミアンには、もってこいの条件、ゆっくりプロペラを
廻し乍ら、何か悠々たる上昇を続け最良の状況だ。

 「こっちを先にすれゃよかったな」と思う間も無く、上昇気流にポッカリ乗って、全然おりてこ
ない。間違ったことのないデサマライザーは、2分半できく筈なのに、3分たち、4分は何時かす
ぎても、グルグル廻っていて、僕はその姿をその影を追い乍ら泣きべそだった。

 前の「カグヤ」で失敗し、たのみに思う「ボヘミアン」を此処でなくして仕舞ったらどうしよう
「ヤイ、ハヤクオリテコイ、早くおりてこいよ」とどなっていると、神の助けか、上昇気流の渦か
ら逃れでたボヘミアンは、間もなく一段高くなった所におりたらしく、土手にくぎられて見えなく
なった。夢中で土手を昇っていると、矢のように2台の自動車が、僕の横を通り過ぎ、右の方から
タウンレフ土手の向うへ消え去ると直ぐに戻ってきて手を振っている。

 その窓には。ああボヘミアンの姿が見えガラス窓に映って、翼の裏側が美しく見える。飛んでい
って機体をひったくる様にして手にもってから、初めて「有難う」という声がかすれて出た。
「ナイス・プレーン」といって「成功を祈る」といってくれた1台の人はアメリカ人もう1台の人
はカナダのマークが、自動車についていた。

 午前中の成績はと見ると、ニュージーランドのジョンアプトン、カナダのフィリップ・ジョイス、
オーストラリアのアラン・キング、アメリカのバクスター等がそれぞれ最高のタイム3分を出して、
予想通りしのぎをけずる戦いとなっている。

 午後から始まった第3回目に、僕はボヘミアンをもって大きく息をのんだ。風は静やかに流れ、
雲は白く、空は青く、絶好の飛行日和だ。捲数は700、恐らく全選手中唯1台のT−56のゴム
だ。1メートル20の緑色のボヘミアンは、1本脚で軽く地をけって昇り始めた。「ナイス」とい
う声をきき乍ら、僕はドリルを投げ出すと夢中で走り出した。

 緑色の機影は、もう4〜50メートルの高度をとって、風に向かってたったまま、ぐんぐん昇っ
て行く。例の長い1分10秒以上の動力ランだ。夢中で走る僕をひろって、赤っぽいシボレーは
機影を追って右に左にターンする。プロペラが畳み静かなグライドに移った。どうやら上昇気流
をつかんだらしく、ちょっと凄い高度だ。左腕につけたストップウオッチが今、2分をさして嬉し
そうに震えている。

 「よかった」心の中で叫び乍ら、ドアを半開きにして、首を出して見上げる僕の目に、アメリカ
の空を飛んでいる、僕の心から、僕の指先から生まれたボヘミアンの姿。
 高度は次第に高まり、時々翼がゆれて、その瞬間キラッと光る。ついに3分はすぎた。運転して
くれるアメリカ人が「グッド」と云ったが、今度は降りてこないのが心配だ。さっきのテストの時、
火なわが消えていたので、外の人から物凄く太いヤツをもらってつけたのが、どうも燃え方が遅い
らしい。5分、6分、8分は過ぎて、とうとう飛行場の外へ出て仕舞った。車はもう先へは行けな
い。

 その瞬間、豆粒のような機影がグラッと揺れた。「シメタッきいたぞ」遂にデサマライザーは働
いたのだ。果たして機体はどんどん降りてくる。僕は自動車を乗りこえると、柵をとびこえ、松の
茂みをつきぬけて、真しぐらに走った。

 不意に、一寸小広い所に出ると、その中央の2メートル程の松の木に、ボヘミアンはやや斜めに
身体をもたれかせながら僕に笑いかけていた。「ボヘミアン」僕は叫ぶと、飛びついてそっと手に
もった。アメリカの空をきったプロペラが、2度、3度廻って、軽く僕の頬にふれた。

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 日本の模型飛行機が、日本人の手によって異境の地で見事にとんだ此の時、これは僕にとっては
勿論、日本の模型飛行機の歴史にとっても大事な瞬間であったと思う。
タイムは、此の回は文句なしの最高タイムだ。暫く吾にかえって立ち上がり、しげみの向こうで手
を振っているアメリカ人に「オーイ」と叫ぶと、その声が嬉しそうにハズみ乍ら、虚空の彼方に消
えて行った。

 出発点に戻って、ガテマラのフェルナンドに「おめでとう」を云われたりして、始めて余裕ができ
てきたが、考えて見れば、夢中で日本を飛び出してきて仕舞ってから未だ数十時間しかたっていない
のだ。

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 役員がきて、日本からお前に電報がきているが、内容は日本語だから分からないというので、青く
なってしまったが、あとでひらいて見れば、スカイフレンズの三上君からの激励の「ピカソ(僕の
あだ名)ボヘミヤン、カグヤ、おちついてがんばれ」というのだったが、その時は全く心配になって
しまい、折角の親切が仇となって仕舞ったわけだ。

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 グレゴリーペックの色を青くした様なアルゼンチンの選手が、銀色の四角いウエークをとばした。
物凄い馬力のある機体でダーッとかけ上がったが、宙返りして地面に叩きつけられて仕舞った。
彼は一瞬ボヤッとして突立って居たが、突然ハジカレタ様に飛びこむと、機体をひろい上げ、それ
に仲間が6、7人かかって、とうとうその回に間に合って、今度はいい上昇で昇って行った。オー
ストラリアからきたアランキングは髪をぼうぼうとさせ、半裸体でゴムを捲く姿は、全くアシュラ
の様だった。

 殊に黒眼鏡をかけ、早口で指図し乍ら、デサマの用意をうながすあたりの物凄い気ハクは、そば
で見ていてもビシビシ伝わってくる程で、こういうのが、それになりきった姿なのかも知れない。
一昨年の優勝者ブロムグリンは、北欧人らしい風ぼうにかすかな笑みをともいうような、一種不可
解な面ざしで、長い神経質そうな指で機体をあつかって居た。彼は第1回目に第1号機を歯車の故
障でこわして仕舞い、第2号機で戦っていたが、バルサの薄い板を胴体に張ったいたましい第1号
機は、暫く修理なって午後から出場して、ビーチパラソルの陰で静かに翼を休ませていた。

 ガテマラからきたボブコフスキーぢいさんの機体は、ゴムを外でまいてワイヤーを使って入れる
方法の機体だが、歯をくいしばり乍ら物凄い勢いでまいている。

 僕の第4回目は116秒で、ゴムが弱っていた。とにかく3回目に飛行場の外迄とりに行って時
間がくったので、大あわてだ。それに風に従って、根拠地を移動するような時など箱でかつぎまわ
るのと、自動車でサッと行くのとでは、大変な労力の相違で、国際競技は必ず2人以上、とにかく
心おきなく手足のようにやってくれる助手1人は、最低の必要条件で、それに自動車もその条件の
一つだろう。

 4回が終わった頃の成績は、オーストラリアのアランキング、アメリカのバクスター、イギリス
のジャクソン等が上位を占めて、最後の回に勝利を掌中に収めんものと殺気が満ちている。僕は5
回目が始まると直ぐ申し込んで、ユックリとゴムを捲いた。右から左から写真のフラッシュがたか
れて、まいて居る目にチカッと星をのこす。

 「最後のラウンドだ、うまくとんでくれよ」と念じ乍ら、ジッと風の方向を見定めた。全回中、
この回は最も冷静だったし、最も落ち着いた。丁度日本のコンテストで飛ばしているような静かな
気持ちだった。風がスッと流れた時、手を放した。

 初めグーッと低くそして機首をもち上げた「ボヘミアン」は、ゆっくりとプロペラを回し乍ら静
かに高度をとり始めた。日本の習志野の夕まぐれ長い髪をひいてとんでいた時の姿そのままに、あ
の一種独特の静かな夢見心地の上昇は、濃いグリ−ンの胴体を蒼空に向けたまま、何時か相当な高
度をとって、白い翼が時々光って見える。

 エアポリスの車にのせられて、機影を追う僕の目に、やがてプロペラの畳むのが見え、静かな物
憂気のグライドは、いっこう降りる気配もなく、2分はすぎ、遂に3分を超え、しかも尚上昇して
行く。不意に機体はガクッと上向きになると、そのまま水平に落ち始めた。デサマライザーが働い
たのだ。丁度4分ほどだったと思う。

 此の回も最高タイムで、こうなると前の2回の失敗が全く残念だ。日本にいた時、始めより後半
にいつも強い僕は「ピカソの3度目」等と、友達にいわれているが、海をこえたアメリカに於いて
も、おまじないは矢張り同じ道を歩んだわけで、3度目からは不思議に強かった。

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 出発点に戻って、アルゼンチン選手の機体の離陸を見たが、物凄い上昇で、見た事もない程の瞬
間的な高度のとり様だった。それ程の機体でも、彼は20位だった。如何にこのウエークフィール
ド競技が白熱的であるかが分かることだろう。

 彼らは何十年という伝統の中から、何百人という故国の一流選手の中から勝ち抜いてきたたった
3人か4人の代表選手。文字通りのチャンピオンだけの集なのだ。その技術、その気力に勿論多少
の差はあるとしても、そんな大きな差はみとめることは出来ない。2度、3度と試合をくりかえし
て行けば、又順序もその度に変わることでもあろう。

 かくて5回終了の時は、夕暮れの帳も、もう迫りくる頃で、優勝はオーストラリアのアランキン
グと決まった。3分5回の最高タイム、完全な勝利だった。2位は英国のジャクソン、3位はニュ
ージーランドのジョン・アプトン、僕は前回のトラブルが致命的で25位に止まった。
後で多くの人から「お前の期待は美しいし、とてもいい、しかし運が悪かった。来年又会おうよ。」
といってくれたが、こんな言葉は失敗したどの人についてもいえる事で、僕が見た所、テストの時
の具合から判断しても、実力の違いは、少なくとも半分位の人については、伯仲しているといって
もよいと思う。

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 今後の日本のウエーク界、そして日本の模型界についての色々な望みは、又別の機会にゆずると
して、唯、僕達はもっともっと飛ばすことが必要だろうと思う。そして、国際的な場に於いて、進
んで行かなくてはなるまいと思う。

 こうして原稿を書いている所へ、アランキングの優勝機の図面がとどいた。それによると、彼の
機体はテルミックなしで2分半だとのことである。僕が日本でもう夜に近い夕ぐれに飛ばした時、
矢張り2分半だった。「なんだ同じかな」これが国際競技へのぞむ前の僕達の考えだった。 違う、
明らかに違う。

 この違いをどうしたら皆に伝えることができるか。どうしたらこの違いを早くうめられるか。そ
れは僕にとって大きな今後の問題であり、又日本の模型界にとっての大事な問題である様な気がす
る。

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 アランキングは、故国オーストラリアに於いて、51、52、53年のチャンピオンであり、更
に此処へ来る前に、ウエークフィールド、グライダー、ガス、カーゴの1位、室内機の2位をとっ
たという。その彼が云う2分半を、吾々はじっくりと考えねばならないだろう。

 宿舎パーキングホテルでは、その夜表彰式をかねた晩さん会がひらかれて、大変な盛会だった。
優勝者アランキングは、今はあの競技中のスサマジサを忘れた柔和な微笑みをたたえ乍ら、やや口
ごもり乍ら、感激した挨拶をのべ、やがてクインから20年の伝統のある純銀のトロフィを手渡さ
れた。

 アランの手に輝く栄光ある大トロフィには、漸てなみなみとシャンペンが注がれ、アランを先頭
にウエークに出場した選手は、その杯からシャンペンをあふるのだった。
僕の手に廻ってきた時、僕は思わず息をつめて、六角形の高さ約50センチ程のくすんだ此のトロ
フィを見つめた。手に心にしみいる此の感激、ああ此のトロフィをめぐっどの様な激しいどの様な
美しいシーンが行われたことであろう。

 過去幾十年間に、此の杯をめざして、世界の国々から集まった人々、その機体、それを此のトロ
フィは鈍い輝きの中にひめて今1954年度、初めての日本選手として、太平洋をわたってきた僕
の掌中にあるのだ。10年間夢に見たこのトロフィ。10年間の僕のモデル生活の目標だったウェ
ーク杯は今ここにある。

 勝つことは出来なかったけれど、始めての日本選手として、世界のチャンピオンと伍して戦い、
今此の杯をもつのだ。舌にしむシャンペンの味はほろにがく、並々と酒を湛えた内部の輝きは、
恰も教会のドウムをあおぎ見たかの様だった。

 誰でもいい、何時でもいい、一度此のトロフィを日本へもちかえりたい。そして世界のチャンピ
オン達を日本へ呼びたい。僕は強く激しくそう感じた。

 その日は、何時、誰によってくることだろうか。早いかもしれない。おそいかもしれない。しか
し吾々は今後毎年ひらかれる此の競技に、最良の選手と機体とを送ってその日に近い将来であるよ
う努力す可きであろう。

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 かくてサオフォーク飛行場でひらかれた1954年度の全世界模型飛行機オリンピックは、世界
のチャンピオン達のつきせぬ談笑と、20年間の歴史を身にまとうウエーク杯のかがやきの中に、
静かに輝かしく、その幕をとじていくのであった。 (終)

                             (1954年 ニューヨークにて)
                                            

                                   − 終り−

                      




           三善さんが飛ばしたボヘミアンの図面      (ZAIC年鑑から転載)  




                      

ウエークフィールドトロフィー

1928年に、イギリスのサー・チャールズ・ウエークフィールド(後のウエークフィールド子爵)が寄贈した銀杯(ウエークフィールド杯)を基に始められた。
2009年の世界選手権で西澤実選手は世界チャンピオンとなり、このトロフィーを手にしました。模型
飛行機の中でも最も古い歴史があるのがこの種目です。

   
                       

 我が国初の模型飛行機の国際競技参加はフリーフライトでしたが、コントロールラインはいつ、誰が最初
 に参加したのでしょうか。ではR/C競技はどうだったのでしょうか。
 次回はこれらについて取り上げてみます。

          
第1話 第2話 第3話
                


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