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国際航空連盟



























































































































































































































































   
   日本模型界の長年の夢であった国際競技への参加第1号はいつ、誰であったか?それはどんな種目
   だったのか?戦後まだ庶民にとって海外渡航が一般的でなかった頃、全世界大会(その当時はこのよ
   うに呼んでいた。今の世界選手権)にたった一人で参加した選手がいます。初めて参加する世界選
   手権はどんな様子だったのかをここに紹介してみましょう。


       この記事は当時の航空関係誌にも掲載され、数年前のインドアの機関誌「FF WINGS」
      でも紹介されました。最近では中部フリーフライトクラブの「CFFC会報」で紹介され
      ましたので、ご本人にも了解を得てここに紹介します。     全4話 


                             



1954年度全世界模型飛行機競技大会参加記     - その2 -

 


    愛機と共にニューヨークにて
                                    三善清達

        
 ニューヨーク郊外、サーフォーク飛行場は、今日もきらめく太陽と、こんなにも青い色がと思わせる
蒼空をいただいて「全世界モデルエアロプレーン・オリンピック」と銘打った大会開会式をむかえよう
としていた。

 もっとも、競技の方は、これより早く始まって、大格納庫を背にしてやや左手の方から、エンジンの
雄叫びが聞こえ、蒼窮をきるブローのひびきが、旋回する翼のキラメキが、朝早くから見えていた。

 さて燃える太陽の幾千の破片でつくりあげたかと思われる軍楽隊の金管楽器が、一せいに天をむくと、
やがてそのひびきは、大会開会式の始まりを告げて、千余の観衆を前にした白い壇の上に、おきまりの
メッセージが始まる。

 やがて各国選手は、アナウンスに従って入場し、その壇の前に並んだ。壇に向かってやや右手の方に、
参加国の国旗がズラリと並び、我が日章旗も中程に例の単純で効果的な色彩をはためかせていた。上空
空には、幾度となくジェット機のパレードがくりひろげられ、如何にもモデル・オリンピックにふさわ
しい光景だ。

 さて、ニューヨークに到着以来、初めての日本選手。それも心細くもたった一人でやってきたという
ので、ひどく人気のあった僕は、此処でも「アイサツしろ」といわれてめんくらったが、日本語でいい
というので、ペラペラしゃべった。壇を降りると又、写真だ。

 例の航空母艦から東京を初めて空襲したアンクという人が、僕と握手し、それを廻りから、上から、
下からチパチとっている。小がらな眼鏡をかけたとてもいい人だった。

 不意に肩を叩かれてビックリしてふりかえると、NHKでおなじみの鈴木アナウンサーで、異境の
地でめぐりあったなつかしさに、飛びついて話をした。そしてVOAの放送車の中から、日本への第
一声を電波にのせた

 今日行われる種目は、FAIガスフリーで、何れも昨日厳重な審査をパスしたものばかりだが、重
量だけは飛ばすたびに行われている。回数は5回で、1回の最高は3分、すなわち5回のトータル9
00秒がリミットで、もし同タイムが2人出た場合には、6回目を無制限にしてとばせ争うわけであ
る。


Class.   No.

Timer   M.   S

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Class.   No.

Timer   M.   S.

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Class.   No.

Timer   M.   S.



 第1回目は、何時迄とアナウンスされるので、其の間に申し込む。そして重量検査オーケーとなる
と、審査員が2人つきそって図のようなカードをもって出発点に行く。
 タイムを記入したカードの一片は、選手に渡し、一片は計時員、一片は本部に戻されて、記録を発
表するわけである。
 本部は例のトレーラーのでかい奴で、それがやってくると、直ぐその前に、秤や受附けや、記録発
表所や水呑場等がつくられてオーケーとなる。
 記録は幅6センチ、長さ60センチの板片で、これにタイムを記入して、順位に従って入れかえる。
これは非常に敏速に行われるので、今、誰がいい成績か、すぐ分かるわけで、なかなかいい方法だと
思う。

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 さて出発点に目を移すと、アメリカ選手はジョーン・テートンが、重量検査を終わって出て行くと。
ころだ眼鏡をかけ、アロハをきた日本的風ぼうの、やや神経質そうな人だ。

 真白な四角胴のモノコック胴体、真赤な翼、パラソル台にアメリカ国旗をいれた、まるでプラスト
イックの製品でも見るような、如何にもアメリカらしい機体だが、とにかくガチッとまとまった機体
で、こういう味の機体は、未だ見たことのない代物だった。
 面白いのは、彼の箱で、ダンボールとジュラルミンで作られていたが、真黄色にぬって、その横に
「これはオリンピックに出場するアメリカ選手の機体である」と書かれてあり、それを見て、ホテル
でも、道でも、アメリカ人が何か偉大な彫刻でも見る様に、大事そうに且つ十二分の尊敬をはらって、
その箱を見つめていることだった。テートン選手は、奥さんと子供同伴で、色白の可愛い女の子は、
観客席から盛んに手をふっていた。

 アメリカの仲間が3人程つきそって、陽炎燃える滑走路へ出ていった。その横から真黒の胴体の機
体 、多分イギリスのだろうと思うが、ギーンと凄い勢いで昇って行く。一寸宙返りしたが、後は殆
どつったった儘で、凄い上昇だ。

 テートン選手は、機体の横に座るとコードをつないだ。真赤な主翼が太陽の接吻に顔を赤らめ乍ら、
まるでカンナの花の様。左手で機体をもってエンジンを叩く。

 バラバラと云う音。直ぐ後へ廻る。友達がデサマライザーの火をつけている。タイマーに手が行く、
ニードルを調整して不意にエンジンがキーンという物凄い音に変わる。神経がしめられる様なハイソ
プラノ。
 サッと手を放す。機体は一瞬に地をけって、やや左にかしぐと殆ど垂直になってのぼり出した。真
赤な主翼が、青い青い空をきって、何か美しい旗の様だ。

 ストール気味に、2度程息をついたが、何なくのりきって、15秒のエンジンランの後にハタと空
中に静止した。頭を下げる。直ぐなおってじっと動かない。大空の片隅に虫ピンで止めた真赤の紙片。

 オレンジ色のスチュードベーカーと、もう1台シボレーらしい車が、2台追っかけて行く。機体は、
蒼窮の一角に止まって動かない。アイスクリーム屋の叫声、それに観衆のどよめき、耳をさすエンジ
ンの響きが、雑色的に混合して、テラランランと太陽も近い。

 1分、2分、どうやら3分は確実だ。ひげの濃い、目玉の黒いアルゼンチン選手が、鳥の様な声で
話している。全く兄弟みたいで似たヤツばかりだ。

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 僕と仲良くなったガテマラのホーリオ・ケヴェドが出て行った。この人は医科の学生で、弟と2人
で来て居り、昨日テスト最中、突込ませて馬鹿に四角い胴体を折っているので、心配し乍ら、遠く日
本語で「ガンバレー」と呼んで応援してやる。

 弟のフェルナンドが、機体を押させて、やがてエンジンがスタートした。手を放した。機体はやや
左にかしぎ乍ら、観客席の上をかすめて昇って行く。一瞬ヒヤっとしたが、立直って昇って行った。
しかしそう具合はよくないようだ。

 何処の国の選手の機体であったか、水平、垂直の尾翼で、脚をつかわずに、始めから胴体を立て
たままスタートさせた選手があったが、ちょっと身もだえしただけであっさり上昇して行った。

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 大会開始から、優勝候補と下馬評の高いスイスのスイルヴィオ・フランキーは、童話にでも出てき
そうな花の頭の真赤なヂイさんだ。彼は今、スイスの旗と愛機をかかえて、ムービーに収まると勇躍
して出て行った。機体は柿色と黒で仕上げたややしぶい色彩で、ヂイさん自身、柿色のシャツに紺の
ズボンといういでたちだ。

 そして彼は、4回の中に、既に、180秒を2回出して下馬評に答えている。滑走路の中央近く座 
を占めた彼は、エンジンを引っぱたくと、タイマーと火なわをいじり、やがてニードルを調整して、
物凄い音を出させると、いきなり地面に腹ばいになってパッと手を放した。

 機体は一瞬にぐんぐんかけ上がると、やや左に廻り乍ら、ぐんぐん高度をとって行った。角度はそ
んなに強くはないが、やや大がらな機体が見せる特別の上昇姿勢だ。機体を目で追い乍ら、ヂイさん
は丸橋忠弥もどきに親指を一本たてて、その飛びぶりを見守っている。
 機体は、エンジンストップの時、ちょっと首を振っただけで、美しいグライドに入り、横向きにな
ったままジッと止まっている。

 これは又180秒かなと思っていると、53年位の緑色のポンティアックが、スルスルと走り出し
て、機体を追いかけて行く。こういう広い平坦な場所で飛ばしては車で追いかけて行くのだったら、
どんなに楽だし、又どんなに好く飛ぶようになるだろう。

 日本では、国が狭く、畠が多く、広い場所を遊ばせておこう等という度量なんて、これっぱかしも
ないから、モデルマン達は、畠や、切り株や、森林を気にかけ乍ら飛ばしている。これは本当に何と
かしなくてはいけない事だ。車はともかく場所だけでも。

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 世界各国から集まった機体を見て、僕が心から感じた第一の事は、広い場所で何の苦労もなく飛ば
していることが、それ等の機体に歴然とあらわれていることだった。そんなことをと思うかもしれな
いが、写真や図面では分からなかった恐ろしい違いでそれがあるのだった。
 日本の機体を、もっともっとのびのびさせたい。木にぶつかったり、屋根に着陸したり等というこ
とを考えなくてもいいようにさせたい。それは僕の切実な願いであり本当に大事なことであるのだ。

 さて、スイスのスイルヴィオぢいさんは簡単に3分をこえて、ぢいさんはおおはしゃぎだ。例のタ
イムの木の札が変わる。こちらの機体は、さすが世界のチャンピオン達の作だけあって、飛び方はや
はり凄い。上昇は日本のに比べて二廻り位上なのではなかろうか。それに選手達の行動の無駄のなさ
というものは、実に実におどろくべきもので余程の練習でなくては、ああいかないと全く感じ入って
仕舞う。

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 日本の機体も、実に美しいものが多いけれど、やはり何かの違いがある。それはやはり練習量だと
思う。とばしてとばしぬいた暁には、きっと今の美しさと違った美しさが日本の機体の中にも折込ま

れるだろう。その時こそ、初めて国際級に地位を占め得る機体が生まれるのであろう。

 大会の運営は、実に見事で、何でも選手本意で、こういう所は、大いに学ぶ必要があると思う。

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 さてアメリカのカール・ウィーリー、めがねをかけたややはにかんだのっぽの青年が、最後の回
に169秒とばして合計844秒で優勝と決まった時、さすがにウィーリー選手は嬉しそうだった。
彼の優勝の栄光をもたらした機体は、友人の手によって自動車で運ばれてきた。

 13秒の差で、スイスのスイルヴィオぢいさんが、第2位となり並んでカメラの放列に収まってい
る。遠く森の彼方を見つめるウィーリー選手と、童顔にしわをよせて笑っているスイルヴィオ選手二
人の胸中は、如何ばかりの感動が押しよせていることであろうか。

 3位はアメリカのデベ・クニーランド、優勝はやはり地もとのアメリカだった。しかし下順位の人、
だって技術的にはそう違いのあるわけでなく、くりかえせば又変わってくることであろう。

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 やがて、せまりくる日没の到来と共に、200台近い車の列は、次第にくづれ、選手を、家族を、
友人を、それぞれつんで、長い滑走路を走って行く。

 僕の参加するウエークは、愈々明日だ。遠い太平洋の彼方の日本では、僕の友達たちが、きっと
一生けんめい祈っていてくれることだろう。

 西半球をてらす太陽は、今地平線のあたり赫々と染まり乍ら、染まって落ち乍ら灼熱の炉をつく
ろうとしている。
                                            

                                                 − 第二話終り−


          

ウエークフィールドトロフィー

1928年に、イギリスのサー・チャールズ・ウエークフィールド(後のウエークフィールド子爵)が寄贈した銀杯(ウエークフィールド杯)を基に始められた。
2009年の世界選手権で西澤実選手は世界チャンピオンとなり、このトロフィーを手にしました。模型
飛行機の中でも最も古い歴史があるのがこの種目です。

   
                       
          
第1話 第3話 第4話

                       



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