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 ラジコンの世界選手権初参加が1962年のイギリス大会。それから11年の歳月が流れました。日
本の模型界にとってエポックメイキングな出来事が起こったのです。それは欧米主流であったラジコン
模型飛行機の世界で、着実に力をつけてきた日本が、1973年のイタリア大会で、吉岡嗣貴選手の世
界選手権手権で日本人初の金メダルを、そして同時に団体優勝をも成し遂げたのです。
 記憶に残るこの出来事を、模型航空アーカイブズで振り返ってみましょう。世界選手権のレポートは
同行行していた本多律理氏によるもので、1973年11月号のラジコン技術誌に掲載されていたもの
です。掲載にあたっては、電波実験社、本多氏の了解をいただきました。     (全4話)                                         
                                          
                           
                  
                  
 


 
−第4話ー



日本に個人、チーム優勝の栄冠が…
 1973年RC世界選手権大会レポート

   1973年9月11〜16日 イタリア・ゴリチア        本多 律理
                                          
                 

9月16日
決勝飛行

 決勝の朝、日本の応援団が会場に到着したとき、日本選手の姿も見えず、競技の始まっていない飛
行場には2〜3名の役員が行き来するだけでした。人影もまばらな格納庫の中で、プレットナー氏が腰
かけていました。声をかけると常と変わらぬほほえみであいさつを返し、悠々せまらざる面持ちをたた
えていました。
 やがて選手が到着し、送信機が回収されました。この日のスケジュールは次のとおりです。

7:00 送信機回収
8:00 説明会
8:30 決勝飛行開始
10:30 決勝飛行終了
グラープナー杯開始 
11:00 グラープナー杯終了
13:00 表彰式
14:00 グラープナー杯再開
21:00 公式バンケット

 格納庫に陪審員長ピメノフ氏が現れ、その場で説明会が開かれ、くじ引きによって飛行順が決められ
た後、いよいよ決勝戦です。決勝飛行では10名の審査員が採点し、全員の点数を2ラウンド合計して
最終成績とします。


第1ラウンド


 1番手のネッカー氏は前半、非常によいできだったのですが、後半ややくずれました。しかし彼は、
この第1ラウンドでは最高得点をとったのです。
 2番に立ったプレットナー氏は全くあがっていたようです。事実、待機している間、ふるえる手を静
めるためか、ハンス(父)がいっしょうけんめいに、こすってやっていました。さすがにロールは完璧
ですが、宙返りは正逆ともによくないです。
 マット氏は、ほぼ彼の持ち前どおり飛ばしたようですが、やはりナーバスになっているようすが、あ
りありとわかりました。ページ氏は、彼一流の大型演技をうまくまとめました。
 最後に吉岡氏が現れると、拍手は一層大きくなり、「フレー・フレー・ジャッポ」という声援が聞こ
えます。慎重な離陸から始まってエンジンをしぼった美しい場周と着陸に至るまで、かれの持ち味を失
うことなく飛ばしおおせました。かくて、決勝第1ラウンド終了時の順位は、1位ネッカー、2位吉岡
、3位ページ、4位マット、5位プレットナーとなりました。

競技が進行するにつれ、得点板の前の人だかりは多くなっていく

 

第2ラウンド

 第2ラウンドでは、5名の選手もやや落ち着きをとりもどしたようです。途中から小雨がパラつき始
めたのですが、飛行に影響を与えるほどのものではありません。ふと気がつくと、何時から鳴っていた
のか協会の 鐘の音が聞こえます。日曜日のミサが始まるのです。日本のチャイム・サイレンのような
「にせもの」ではなく、本物のマルチ・ベルの音が「ガラン、ガラン・・・」とゴリチアの野を渡って
いきます。英語のRing the bellというイディオムが「優勝する」意味の修辞的表現であることと、今聞
こえる鐘が教会における祈りのためであるという事実が、何やら大きな力をもって迫ってくるような気がしました。
がしました。選手は黙々と飛ばし、観客は声援を送りました。吉岡選手の飛行が終わって、結果の発表
まで、しばしの沈黙がありました。その間の長さは、あの東京からローマまでの南回り便の旅のように
、まどろいものでした。突如、吉岡選手優勝の発表があって一瞬信じられぬという色がかすめた次の瞬
間、選手もチーム・メンバーも応援団も、どっとばかりにわきました。

表彰式

 表彰式は、軍楽付の豪勢なものでした。まず、各国の参加選手全員が入場します。「第8回ラジオ・
コントロール世界選手権優勝者ツグタカ・ヨシオカ」の宣言とともに、表彰台上に立った彼の顔は輝い
ていました。2位マット、3位プレットナーと台に上がり終わると軍楽隊による「君が代」の吹奏が始
まります。厳粛と歓喜が入り交じる中で、デプロマ(賞状)とメダルが贈呈されます。
つづいて、日本チーム優勝の表彰です。チーム・マネージャーの飯岡氏を先頭に、高橋、奥村両選手、
助手の吉岡(弟)、清水、柄沢の3氏も加わって表彰台の前に整列します。またもや拍手と歓声・・。


*  *  *  *  *  *  *

 
 第8回RC世界選手権大会は、日本にとっても、世界にとっても、一つの時期を画しました。有名な
選手と強い国が交代したのです。さらに、ジェネレーションとしても、一つの区切りをつけました。ラ
ジオ・コントロールはもはや年輩の経済力のある人々の遊びであるよりも、若者のスポーツであること
を示しました。選手の年齢層がそうさせるとともに、彼らの若さにあふれた飛行が人々を魅了したので
す。この世界選手権大会 ― 日本にとっての栄光の競技会 ― は、また底抜けに楽しい国際親善のつど
いでした。競技会の役員、選手、観客、バスの運転手、料理屋の主人・・・、善意に満ちた楽天気質の
イタリア人は実に親切でした。
 
 バスがゴリチアを去ろうとして、戦没者記念墓地のそばを通ったとき、あの歓声とどよめきと拍手が
、風の間に間に聞こえたのは空耳だったのでしょうか。そうですわれわれは、あの善意に対して今一度
叫び返したいのです― 「ビバ・イタリアグラーチア」(イタリア万歳、ありがとう)と。

RC世界選手権大会 歴代チャンピオン
60年 スイス大会 E.カズマスキー (アメリカ) 機体・オリオン
62年 イギリス大会 T.ブレッド (アメリカ)  機体・ペリジー
63年 ベルギー大会 R.ブルック (アメリカ) 機体・クルセーダー
65年 スエーデン大会 R.ブルック (アメリカ) 機体・クルセーダー
67年 イタリア大会 P.クラフト (アメリカ) 機体・クイック・フライ
69年 西ドイツ大会 B.ジーゼンダンナー (スイス) 機体・マラブ
71年 アメリカ大会 B.ジーゼンダンナー (スイス) 機体・マラブ
73年 イタリア大会 吉岡 嗣貴 (日本) 機体・ブルー・エンゼル改


       

 

                  
− 完 −
                 
                 
第1話 第2話 第3話

   
   

                                                                              ページトップへ