No.009
2013年4月20日
いとう     まさる    
伊 藤 勝 氏

(1927年11月16日〜
          
模型航空フリーフライト殿堂 009 伊藤 勝 氏
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〔プロフィール〕
 1950年代にフリーフライトを始める。1965年のフィンランド世界選手権では、代理飛行でウェークフィールド部門に出場する。初出場ながらパーフェクトを記録してフライオフに進み、12位という記録を残す。
 その後暫くフリーフライトの世界から離れていたが、1980年代に中部フリーフライトクラブに入会して再びゴム動力機を始める。日本選手権では常に上位の成績を残し、1997年には世界選手権チェコ大会に挑戦して日本選手の中でトップの成績を残す。
 伊藤氏が製作する機体は、作りの正確さと美しさはまさしく日本一と呼べるものであり、現在では数多くのF1B選手が伊藤氏の機体を競技会で飛ばし、素晴らしい成績を残している。




[競技歴]
1965年38歳 世界選手権フィンランド大会(代理飛行)12位
1990年63歳 日本選手権3位
1994年67歳 日本選手権2位
1995年68歳 日本選手権2位
1996年69歳 日本選手権優勝
1997年70歳 世界選手権チェコ大会
1999年72歳 日本選手権2位
2004年76歳 日本選手権優勝













模型航空フリーフライト殿堂 009 伊藤 勝 氏 模型航空フリーフライト殿堂 009 伊藤 勝 氏


















〔仲間から〕
《西澤 実》 私が初めて伊藤勝さんとお会いしたのは、今から30年ほど前のことです。伊藤さんは競技用ゴム動力機の大先輩で、正確でとても綺麗な機体を作られる名人だとお聞きしていました。そのときに「暫くFFから遠ざかっていたので最近のF1Bの資料を見せて欲しい」と頼まれ、私の手元にあった『Free Flight News』に載っていたF1B図面を何枚かお渡ししました。
後日、中部FFの月例会で伊藤さんが新しく作られたF1Bを見せていただきましたが、その精巧な仕上げを見て本当に驚きました。バルサの胴体はオレンジ色のウレタン塗装でピカピカに仕上げられ、まさに芸術品と呼ぶにふさわしい機体です。正確にリブ組みされた翼には反りやねじれがまったく無く、薄手の和紙が綺麗に貼られていました。プロペラブレードは、当時主流のバルサ製ではなく桐材で出来ていました。
伊藤さんは私よりもかなり年齢が上ですが、頭は柔軟で昔の考え方に固執するようなことはありません。良いと分かれば新しい事を積極的に採用します。1993年のアメリカ世界選手権には私に同行して頂きましたが、そこでAndriukovのハイテク材料で作られた機体とその飛びを見て衝撃を受け、日本に戻るとすぐに新しい機体の製作を始めました。今では当たり前になっているケブラー胴体・カーボンDボックス・DPR(遅延スタート)可変ピッチプロペラなどを使った新しい機体で、日本の競技会で初めてDPR発航を披露したのも伊藤さんです。
伊藤さんは元々木工のプロ(木型屋さん)なので、機体を作るときには各種治具を使用して作るのが当たり前になっています。例えば翼台は左右の内翼・外翼用に計4枚用意しますが、無垢の木材からカンナで整形された4枚の翼台には、それぞれねじり上げ、ねじり下げが付けられています。内翼と外翼の接合部分には、正確に上反角も付けてあります。この他にも数多くの治具を使って組み立てていきますが、伊藤さんが言われるには「治具が無かったら飛行機は作れない」そうです。使う材料も最上級のものです。例えば昔の機体では桧の角材がスパーとして使われていましたが、2mm角のスパー材でも端から端まで木目が真っ直ぐ通っています。リブに使うバルサも、10枚の中から良質の2枚程度しか使いません。水平尾翼のDボックス用バルサ板は、厚さ1mmとか0.8mmの板をカンナで0.6mmに薄く削り直してから使っています。
今ではこうして出来上がった機体が日本全国の大勢のF1B選手のところに届けられ、日本選手権・世界選手権で数多く飛ばされています。この10年くらいの間に日本のF1Bのレベルが急に高くなったのは、この“伊藤機”を飛ばす選手が増えたことも大きな要因と言えるでしょう。長い間日本のF1Bを引っ張ってきて頂いた大先輩の伊藤さんには、ただただ感謝するばかりです。

模型航空フリーフライト殿堂 009 伊藤 勝 氏
《吉田 潤》 伊藤さんの称号は「名人」であり、誰もがそれを認めている。日本中に弟子を持つ伊藤さんだが、私にとっては、師匠というには余りにも大きくて遠い存在である。親子ほど年齢が離れており、いつも甘えさせてもらい、いつも背中で教えられている。だから、瀬戸のお父さんと呼ぶのが一番合っていると思う。
初めてお会いしたのは2000年だったと思うが、二宮賞の前日練習で大中に来られた時だった。ライトプレーンを飛ばしていた私に優しく声を掛けてF1Bの説明して下さったのだが、ゴムを巻き始めるや別人の様に気迫に満ち、投げ上げた機体はものすごいパターンで上昇していった。ただただ唖然として見上げていた事を今でも鮮明に覚えている。
それがきっかけで火がついてしまってミニクープ、F1Gと作り進んでいる頃に再会し、製作への熱い思いを口にしたら、「うんうん。羽根くらいは自分で作りたいよね。」と言ってニコッと笑われた。その後、F1Bを始めてみて、それが「ニコッ」ではなく「ニヤリ」であったと理解した。モデラーなら誰しも、設計、製作、調整、競技、全てを自分の力でと思うもの。しかし、F1Bでそうすることは並大抵ではない。それが出来ているからこそ「名人」と呼ばれているのだ。遠く及ばない存在。車に例えればテールライトしか見えない。でも必死で追いかけたい。
最初は完成機を譲っていただいた。そのうちに羽根だけ作っていただき、自分で組み上げる(作るとはとても言えない)ようになった。ちゃんと飛ばさなければ申し訳が立たないので、調整やサーマル読みも努力するようになった。そうしたら少しずつ結果がついてくるようになった。飛ばす方だけは弟子にしてもらえたかな。育てていただいた事に感謝しながらも、まだまだ遠いテールライトを追いかけている。


1965年フィンランド世界選手権で飛ばした機体 ハイテクR級


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