No.007
2013年7月5日
まつの    じゅんいちろう    
松 野 順 一 郎 氏

(1925年4月10日〜
         2003年6月12日)
模型航空フリーフライト殿堂 007 松野 順一郎 氏
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〔プロフィール〕
まず、松野さんの世界選手権出場暦をご覧に入れる。

1979年 アメリカ タフト
1981年 スペイン ブルゴス
1983年 オーストラリア
1985年 ユーゴスラビア
1987年 フランス トアール
 種目F1A


選手権は隔年おきの奇数年に開催されるから、1979年から5回連続で参加されている。5回以上出場している選手はいると思うが、連続5回というのは松野さん一人であろう。 世界選手権に出るには日本選手権で上位の成績を納めた選手が集まって選抜競技会を行って派遣選手を決めていたから、先ず日本選手権で上位の成績に入る必要がある。松野氏は10年間に亘って日本選手権で優勝こそ逃しているが、常に上位の成績をキープしていることを表している。これは大変なことで「終わってみれば松野さん」という言葉が松野さんに最もよく表した言葉であろう。
 F1Aの機体は全て自作でサークリングのみでバント発進以前の構造であった。傑作は国内級のG級グライダーである。この国内級の規定では翼長が1500mm以内であることが要求され面積に関する縛りがない。そこで松野さんは翼幅を可能な限り大きくして、謂わば「座布団」のような主翼の機体を飛ばし何回も優勝しているので、ライバルからやっかみの声があがって来たが、馬の耳に念仏、何処吹く風という態度で勝負にこだわっておられた。勝負に対する執着心は格別なものがありこれが連続5回も世界選手権へ出場の原動力になったに違いない。
70才過ぎて脚力に衰えを知ると、グライダーからゴム動力機F1Bに転向され楽しまれた。
 しかし、一旦競技会を離れると、温厚なまとめ役になられた。フリーフライト委員会の委員長を何年にも亘って務められたが、世界選手権出場の選考方法は、それまでは2年間の日本選手権で上位4位までの選手で選抜競技会を行って、上位3名を選出していた。それを毎回の選手権で優勝者には12点 以下10位の選手が1点と順位に応じて持ち点を与え、2年間の合計点が高位の選手から参加希望を聞き決めていく方法に松野さんのリーダーシップで 変更された。
委員長を退かれた後、2000年春にフリーフライト委員会より永年の功績を讃え感謝状が贈られた。
 晩年は体調を崩して入退院を繰り返され模型から離れておられ、78才で他界された。


模型航空フリーフライト殿堂 007 松野 順一郎 氏     世界選手権への出場承認証
  日本模型航空連盟会長は元外務大臣で
  模型愛好家の園田 直氏


〔ご家族から〕
《長男 松野俊夫さん》   模型航空フリーフライト殿堂を拝見させて頂きました。父順一郎が他界してから10年が過ぎ、このような形で父親と再会できるとは思ってもおりませんでした。亡くなった後でさえも、生涯の趣味であったフリーフライトにかかわらせて頂くことが出来、つくづく幸せな人生だと思います。
模型航空フリーフライト殿堂 007 松野 順一郎 氏  父が何時頃から模型飛行機を趣味としたのかは定かではありませんが、私の遠い記憶では、恐らく幼稚園児のころかと思いますが、飛行機を収納する大きな箱が括りつけられた自転車に乗せられ、何処かに飛ばしに行ったことを思い出します。おそらく父の30代後半の頃と思います。母親に尋ねますと、どうも戦時中は調布にある現JAXAの前身である中央航空研究所と何らかの関係があったようで、そのあたりから飛行機とは縁があったのかも知れません。
また、昭和30年代にエンジン付き飛行機の胴体に、火縄でシャッターが落ちるように改造した玩具のカメラを取り付け、東京都杉並区上井草にあった東京球場の上空からの球場を空撮し、その写真が当時,有名であったZaic年鑑(西暦年 Model Aeronautic Year Book 正式名称)記事として紹介されたことを自慢にしていたことを思い出します。
 東京選手会に入会し、本格的にFFにのめり込んでからは休日に自宅にいたことはほとんどなかったように思います。私も何回か機体の回収係として成増にあった「赤塚田んぼ」に連れて行かれたことを覚えています。今回のお話しを頂き遺品を改めて探したところ、週刊朝日(昭和42年10月13日号)「富士の裾野のヒコーキ野郎」という巻頭カラー誌面で「東京模型飛行機選手会」の紹介記事が出てきました。よくよく見ると父と私が左上に写っており、私自身は飛行機を趣味としなかったため、以後父親に付き合うことはありませんでしたが、国内大会や国際大会に参加した話の中で、今回のフリーフライト殿堂に入られた方々のお名前聞き覚えており、父の姿と共に懐かしく思い出されました。
仕事をリタイアした後は時間的にも余裕ができ、一週間の大半を作業場で過ごしていました。根が凝り性でしたから作業場も本格的な機械をいれ、機体作りに没頭していました。リタイア後に張りのある人生を送れたことは、大勢のお仲間があったからこその事と思います。最晩年は病気との戦いでしたが、満足した人生だったのではないでしょうか。
 今回、殿堂にご推挙いただき、父の模型飛行機人生を記録に残していただくこととなり、家族としても大変栄誉なことと喜んでおります。生前、父と親交のあった皆さま、また今回の殿堂入りにご尽力下さった皆さまには心より感謝致します。


〔仲間から〕
《平尾寿康》   1978年頃に家を買って千葉市検見川浜に引っ越した頃、すぐ近くは広い野原でした。
そんな時ヒコーキ好きなのを知っている友人がHLGの資料 を送ってくれました。HLGは費用も安く作りも楽そうなので、早速作って近所に飛ばしに行きました。そこで東京から飛ばしに来ていた松野さん達 にあったのです。私は四国の田舎育ちですから、FF大型機は若い頃雑誌の航空情報や航空ファンで知っていたものの、F1A、Bを見て驚きました。 場所は近いし、しかも日本FF界の精鋭が飛ばしに来ていたのですから凄いショックでした。それ以来模型飛行機に病みつきになり毎日曜日朝、飛ばし に通いました。当時松野さんはグライダー専門でしたが、何故かうまが合い長い付き合いになりました。その頃は関東のFF仲間はほとんど幕張埋立地に飛ばしに来てました。松野さんはすぐ側に住んでいる私よりも早く来ていて、初心者の私の面倒をよく見てくれました。私はHLGとゴム動力機がメインでしたが、温厚な人柄の松野さんから、グライダーをやれと言われたことはありませんでした。
模型航空フリーフライト殿堂 007 松野 順一郎 氏 その内に幕張埋立地がダメになり、秋は大宮田んぼ、夏は千葉ニュータウンに場所を移しました。 大宮田んぼは故村井先生か見つけてきて、その後 20年近くお世話になりました。当初来ていたのは10人ほどで寂しいものでした。
そんな折松野さんが「ランチャーズ記録会を大宮でやろうよ」と呼びかけてくれました。そこでランチャーズ記録会を大宮田んぼ開催に変更、さらにその後のランチャーズホームページの開設等で、大宮田んぼは日本 FFのメッカとして全国的に、更には世界的にも有名になりました。FFのメッカ大宮田んぼは長く続きましたが、しだいに競技会も含めて余りにも大宮田んぼにFFイベントが集中しすぎ、それが原因でFFの大宮田んぼ時代は終焉しました。しかし、松野さんはその事を見ないで亡くなられたので、良しとすべきでしょう。
当時、当然ながら松野さんは飛ばす機体は全て自作していました。様々な工作機械を持っていたので、グライダーフック等のアルミ金物の加工や電子 部品の製作も自分でやってられました。カーボン機時代になると材料を仕入れてカーボンシートの自作もやり、出来た試作品をよくくれました。当然ながら カーボンF1AやG級グライダーも作りましたが、さすがにバント機はやりませんでした。その理由は技術と言うよりも、残念ながら加齢による体力低下が原因で走る事が出来なくなったからでした。
1980年代は場所難で競技会が少なかったのですが、いつも「何処かイイ場所ないかナー」と言っていました。その言葉に押されて、地元の市会議員 から役所に話して貰い、幕張埋立地で第1回競技会をやりました。それがもとで私もヒコーキから足が洗えなくなり、松野さん共々泥沼を這いずる日々 が始まりました。幕張で競技会開催に勇気を得て、松野さん共々競技会の場所探しのみならず、運営方法も模索する様になりました。
それまで日本選手権競技は御殿場で開いていました。御殿場は敷地に相当の高低差がある上に、強風の時などでは樹海に飛行機が飛びこみ回収は命がけでした。また、競技 も1日で全てを終わる行程で、計時はラジコンや室内機の人々の応援を得て行っていました。ですから、競技会開催にはその方々の都合と、その宿泊場 所、更にその費用負担等等で役員も選手も苦労していました。風で競技会が中止になると、年内の再開が出来ず中止になる事もありました。そんな折に 松野さんがFF委員長をやるから「手伝って欲しい」と言われ、手伝うようになりました。 2回程千葉の埋立地で開催しましたが狭いので、みんなで千 葉の干潟を見つけて地元と交渉し、それ以来干潟で開催しています。
次は選手権競技会の運営方法の変更でした。多くの人を集めるのではなく、FF仲 間達だけでどうすれば開催できるかを検討しました。そして選手同士が計時をして2泊3日でやる方法を考え出しました。しかし、当初は「疲れるから計時はやりたくない」と言う選手や、「何日も泊まるのはイヤだ」等等でもめました。しかし、これからの競技会開催にはこの方法しかないとの松野さん 信念と熱意で、円滑な運営方法を委員会で討議を重ねました。そしてようやく現在の方法に落ち着きました。さらに競技の時間割、役員分担、その組合せと分担表の作成などを討議しました。 さらに開催場所を関東と関西で交互に開催する事等、松野さんの根気よい説得でようやく現在の方法が定着ました。
さらに、これまで世界選手権の出場選手決定は、必ず選抜競技で行われていました。これらも選手権競技と同様に、場所の設営から役員の依頼等中々 面倒で、費用もかかるし選手共々役員も苦労していました。
そこで試行錯誤の上、2年間の日本選手権競技によるポイント制を考え出し、出場したい選手のポイントで行けるように改めました。この方法は最初は多少ギクシャクしましたが、これも現在では当然の方法として定着しました。考えて見る と、現在やっているFF界の各種競技や、競技会開催方式には松野さんの影響が大きいことに気がつきます。
これらの成果はほとんど委員長時代の松野さんの積極性と努力の賜なのです。

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