No.005
2013年4月5日
うちやま     ひでお    
内 山 秀 夫 氏

(1925年10月1日〜
         1996年)
模型航空フリーフライト殿堂 005 内山 秀夫 氏
FF殿堂のホームへ戻る

〔プロフィール〕
1991年(66歳)FF世界選手権ユーゴスラビア大会に、F1A選手として自身が製作した「自動発航装置」を持参するや、一躍世界の注目の的となった。
それまで曳航グライダーの練習には、機体保持のための助手を必要とした。
このオリジナル「自動発航装置」は、なんと言っても1人で練習が可能となるパートナーとして、画期的で世界に誇りうる発明品となった。
さらに子供達に自宅を開放して模型作りの楽しさを熱心に教える、いわゆる寺子屋的存在となった。
そんな人一倍、包容力行動力がある気さくな性格と合い重なり、多くの人が集まっていた。
今も活躍している多彩なモデラーのルーツは、すべて氏の模型飛行機に対する情熱と、人に温かくときには厳しい指導のもとから始まっている。



















1925年10月1日 静岡県天竜市横山町で誕生
1953年 28歳 大阪ピッチクラブ(R-PC)設立
         ・自宅を開放し、小中学生に模型飛行機の技術を指導
         ・全学童模型飛行機競技会(大阪大会)で多数を全国大会(東京)へ
         ・教え子からF1A部門で日本選手権者2名輩出
1956年 31歳 関西とばそう会を結成
         ・ライトプレーン、ハンドランチ、カラス型、インドア、R級、F1A、F1B、 オールマイティー
1959年 34歳 京都フリーフライトクラブ(KFC)、関西とばそう会、合同で「第1回二宮賞 大会」を開催(小椋)
1971年 47歳 グライダー用自動発航装置(写真)を開発
1985年 60歳?各地で小学生に模型飛行機教室を開く
1986年 61歳 日中友好模型航空競技会 出場
1986年     長居スカイフレンズ 設立
1991年 66歳 世界選手権ユーゴスラビア大会に出場
1994年 69歳 中国天津市で、小中学校生と日中友好模型航空大会を開催
1996年 71歳 死去
1997年 ?   ・大阪ピッチクラブ員が模型飛行機教室を各地で実施
         ・内山杯を奈良平城宮跡で毎年4月に開催

〔ご家族から〕
《長女 ふみよさん》 父は幼い頃、山からシダの葉を滑空させて遊んでいたそうです。結婚を機に近所の子供達を集めて「大阪ピッチクラブ」を発足しました。私が子供の頃は学校から帰ると狭い家が作業場となり、夕方父が帰宅すると、夕食までの短い時間が模型教室の様でした。父の留守中には、母が皆の相手をしていたのでしょうね。クリスマスの日には母の得意なぜんざいをクラブの人たちに振る舞い、楽しい思い出の一つです。
 父は色々なことを創意工夫することが得意だったので、曳航グライダーの「自動発航装置」やF1Bのゴムを一人でも巻ける道具などを考案しました。退職後には自由に時間が取れて、朝5時頃から長居公園や難波宮跡へ出かけて遊んでいました。学校が土曜日休校となった折には、多地域の子供会より依頼を受け、模型飛行機教室を行っていました。
 父が余命3ヶ月と診断されたとき、飛行機仲間が随分と力づけてくださり、とても感謝しております。「いっぱい好きなことができた、幸せやった」が父の最後の言葉でした。家では「人に迷惑をかけるな」「人には親切にせよ」と言っていました。その言葉は今の子供、孫へと伝えています・・・「悔いのない人生」が父の一生です。うらやましい限りです。

模型航空フリーフライト殿堂 005 内山 秀夫 氏 〔仲間から〕
(飯田清隆)1981年夏に富士川滑空場で開催された(第21回)二宮賞に、私がG級(国内級曳航グライダー)で初出場したときが、内山さんと最初の出会いでした。うまく飛ばせたことを、内山さんから大きな拍手で誉められたのがきっかけとなり、HLG以外の仲間がさらに増えたことに感謝しています。
 翌年、初めて滋賀県の大中で(第22回)二宮賞が開催されたときから、さらにF1Aでお世話になった始まりです。このとき一番驚いたのは、ホルダーをする助手を頼まず、オリジナルで実用化された「自動発航装置」を使用してのスタートでした。私も内山さんから提供して頂き、それは強い風にも耐え、シンプルで使い易く30年以上使用して今も健在です。一人で飛ばせるように長年考え抜いて実現されたこのホルダースタンドは、通称「ぱったん」と呼ばれ今も関西のF1Aフライヤーの間で重宝されています。(下から杭部、ヒンジ部、竹竿、胴体を保持する挟み部で構成され、発航でグライダーの胴体が曳かれると竹竿がヒンジ部から倒れ、それと同時に挟み部が開く構造)
 
(村上善信)すぐに思い出されるのが「走れ、走れ」という独特の大声です。F1Aを飛ばすには、気象変化や墜落などへの回避対応、競技の取り組み方などを私達後輩にはきびしく指導頂きました。また宿舎では「F1A選手ならエレベーターを使わず、階段で上れ」と檄を飛ばして、自身はご高齢にも関わらず、さっそうと走って上られたのには驚きでした。(フィジカル、メンタル面でも特異でした)
 サークリング技術が入ってきた当時、「ダイヤモンドフック」というピアノ線をダイヤ型に曲げた部品を使用。この曳航用フックの利点は、安価で容易に製作でき、少々の強風でも対応できる初心者にも優れたものでした。
 内山さんの製作した飛行機は、芸術的とは言えませんが、実戦向きで大会時にことごとく機体がサーマルへ引き込まれ、マックスを重ねていく印象を受けました。このことは、当時ライバル同士であった木南さんも絶賛していました。
 中国へも模型飛行機教室での普及活動に数回訪問し、子供達と友好的な交流を成し得ています。そのとき持参した自設計製作のスチレンペーパー製LPが、毎回2〜3000機と桁違いの数に圧倒されましたが、その支えは常に家族の理解協力が成し得たパワーが源でした。

(鷲見健次)内山さんとの出会いは、1990年頃上原さん(故人)から、大阪でグライダーを始めるならと氏を紹介していただいたのがきっかけでした。さらに自宅へ招待していただき長居スカイフレンズの皆さんと合流し、グライダーの製作方法、飛ばし方などを親切丁寧に教えてくださいました。

(川阪末継)今も氏の志をついで、毎年、大阪ピッチクラブ主催の<子供模型飛行機教室><内山杯LP競技会>を行っています。
 


内山式グライダー発航装置はフリーフライト界の世界的な優れものです。
原理はそのままにして、YSFの品川伸一さんが作った装置の説明図です。
FFグライダー発航装置の説明図−1



FFグライダー発航装置の説明図−2

pdf版ダウンロード
このページの先頭へ



このホームページの著作権・所有権は 日本模型航空連盟 フリーフライト委員会 にあります。<< 禁無断複製 >>