No.004
2013年4月5日
お か べ   の り お      
岡 部 禮 雄 氏

(1913年3月29日〜
         1999年9月27日)
模型航空フリーフライト殿堂 004 岡部 禮雄 氏
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〔プロフィールに代えて〕
《松本允介》 モデルジャージャーナル1979年5月号の読者欄:層流に斉藤正史君のエッセイ「出会い」が出ています。岡部さんの人となり・その飛行機をよくあらわしていて私も同感なので部分引用します。
『・・・ぼくがなかなか性能のいい機体をパチンコでうち出して悦に入っていると、「よく飛ぶね」(のちにわかったことだが、この人はだれにでも「よく飛ぶね」と声をかける)と男の人が声をかけてきた。日焼けした手には、ライト・プレーン(LP)を持っていた。それまでもLPを持ってくる人はいたが、・・・紙飛行機より飛ばない。・・・そのときも「また来たな」と思ったが、LPが男の人の手をはなれると、グングン上昇していき、あっという間に豆つぶほどの大きさになってしまった。その飛行の美しさ。ぼくの飛行機観はすっかり変わった。
多分この時、ぼくは本当の飛行機キチガイ屋の一歩をふみだしたのだろう。愕然とした。どうしてあんなに飛ぶのかな?・・・
再び公園広場に行ってみるとおどろいた。1年半もすぎると、まるで浦島太郎のようである。あのときの人は毎日足繁く通うようになっていて、その人の仲間(註1)が何人もライト・プレーンを楽しんでいる。本誌の記事を書いている人(註2)もいる。・・・』
この岡部さんの機体の完成された美しさと高性能がLP人口の増加に大いに寄与しました。
岡部禮雄(のりお)さんは1913年3月群馬県生れで法政大学卒、戦前の中島飛行機に入り経理課長で終戦を迎えています。中島飛行機社長、中島知久平氏の親戚筋だった様です。戦後は中島の後継会社、富士重工に勤務して取締役で退職。本格的にLPの高性能化に取り組んだのは退職後の模様です。
戦後は杉並の模型クラブに属していたそうです。このクラブには模型翼型集の鈴木茂さん、紙飛行機の二宮泰明さん、GPFの先輩今村八平さんなども所属していました。
斉藤君のエッセイにある通り、小金井公園に現れたのは1977年頃、その頃は岡部さんのB級ライトプレーンは完成形でした。それまでは大宮たんぼや代々木公園で飛ばしていたのでしょう。小金井公園時代の終りになる1979年後半には岡部さんを中心にしたライトプレーングループは参加者20人以上の競技会を開くほどの規模になっていました。
1978年8月からグリーンパークが広場として開放され、岡部さんをリーダーとするライトプレーングループも活動の場を徐々にそちらに移しました。以後一貫してグリーンパークのLPの技術的リーダーでした。その頃は代々木公園の樹木も低く年数回代々木スカイフレンズの大会が開かれていましたが、岡部さんは弟子を引き連れて毎回その大会に遠征していました。
 1989年、5年以上のブランクのあとに私がグリーンパークに顔を出したときには愛好者仲間は更に増えていました。岡部さんのLPは見掛けは前と全く同じなのに上昇パターンが大きく変化していました。小金井公園時代は数秒に一回の強いスパイラル上昇パターンでしたが、新しい上昇パターンは少ない旋回の直線上昇でした。LPでは初めてと思いますが、VIS (variable incidence stabilizer)を装備したのです。原理自体は簡単で動力ゴムの張力で胴体を曲げ、それにより水平尾翼の迎角を増やして初航直後の頭上げを抑えるというものです。但し、この機構は厳しく定量管理することが必要です。ゴムをフル巻きしたときの水平尾翼後端の基準線からの低下長を測るゲージを使い所要低下長になる様に胴体を削って胴体強度を調整していました。東京選手会の大会でこの新兵器を使い並居るF1B陣を撃破したのが岡部さんの自慢話でした。
あるときから岡部さんと小堀三夫さんの関係がうまく行かなくなりました。岡部さんが亡くなった後に他の人から聞いたのですが、小堀さんが岡部さんのコピー機を作り獲得高度の対決をしたら小堀さんが勝ってしまったのだそうです。岡部さんの負けず嫌いの一面です。
1999年の春先までは元気に公園に通っていたのですが肺がんを発病、その年9月27日相模湖に近いホスピスで86年の生涯を閉じています。
(註1)私もその一人
(註2)萱場達郎さん

〔後輩から〕
《田岡 眞》 僕のグリーンパーク時代.まだ飛行機を始めたばかりで、朝な夕なにライトプレーン(LP)を持って公園に行くと「やあ」と片手を上げて迎えてくれた岡部さんは、何時でもグリーンパークにいたような気がする.
 1980年代は、R-2級が盛んであり、今日のように翼面積、機体重量そしてゴム重量に制限がなく、フック間隔が300mm以内というしばりしかなかったので個性的な機体が多かった.
このR-2級で憧れていた湘南大会で1度は優勝したいとスラストの調整ばかりをしていた.その様子を見かねて岡部さんが機体を点検して色々とアドバイスをして頂いた.
そのとき他の機体も見て和田さんの機体が一番良いと言われたが、その言葉通り、その年の湘南大会で和田さんが優勝した.翌年の大会では岡部さんのアドバイスを参考にして設計したR-2級機で湘南大会と国内級大会で優勝した.このことを岡部さんは我が事のように喜んで下さり「あんたが一番弟子だ」と言われた.この時のことは、何時までも記憶に残っており懐かしい.
 同じ頃、東京選手会は1年間に大会と記録会をあわせて5回開催していたが、2年間に亘り計10回の催しで、岡部さんは混合級(R-2,F1B,B級LP)にB級LPで出場され、その間全部のラウンドをMAXを記録されたのが忘れられない.
 機体は永年飛ばし込んでおり、黒光りするバルサの胴体はゴムを巻くとテール部分が、僅かに曲がりダウンスラストがつき、ゴムレリーズの初期のバーストによる宙返りを防ぎ垂直上昇をして、ゴム張力が減るに従い曲がりがなくなり、さいごの最後まで垂直上昇を続け、やがて旋回に入るパターンは、何回飛ばしても変わらず見事であった.機体性能、飛ばす能力、探求力に感動した.
 大宮田んぼでF1Bを飛ばすことが多くなり、グリーンパークにはご無沙汰したが、たまに顔を出すと「田岡さん、そろそろ世界選手権であんたは勝てるね.あんたなら大丈夫」と励まして下さった.まだ、これに応えることが出来ないけれど・・・・・・
飛行機仲間と雑談中、グリーンパークの話題になると、改造ワインダーを抱え、LPを片手に持って気流が良ければ飛ばすぞとばかりゆっくり歩いていた、日焼けした顔に白い帽子姿の岡部さんが今でも目に浮かんでくる.

岡部 禮雄 氏 1993年5月グリーンパークにて
《吉岡靖夫》 氏は無類の照れ屋であって、同時に毒舌家であり写真をまともには撮らせない.
漸く撮ったのがこの写真で四つ切りに伸ばして進呈したら嬉しさを押し殺して開口一番「あんたがうまいのではなく、レンズが良いから撮れたんだ」

 大宮での記録会、岡部さんはB級ライトプレーンで2分マックスを3ラウンドパーフェクト.
F1Bの連中が歯ぎしりして口惜しがる.どういうわけか私はF1Aでパーフェクト.フライオフとなったが、風が吹き出したので場外に出る怖れありでジャンケンで決着を提唱、氏も同意してジャンケンポン.氏の勝ちだった.
この時のことを後々まで私に会う度に周りの人に「吉岡はまともに勝負したら負けると思ってジャンケン勝負にしたが、やっぱりジャンケンでも負けた」と披露するのには参った.

















〔岡部さんのA級ライトプレーン〕
岡部式VITを装着したA級LP.
B級 ライトプレーン SASHIBA-U 三面図
A級 ライトプレーン 滞空機の折ペラ設計
A級 ライトプレーン 滞空機の折ペラ設計 別紙 図面
A級 ライトプレーン 滞空機の折ペラ設計 工作メモ 頁1
A級 ライトプレーン 滞空機の折ペラ設計 工作メモ 頁2
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